コラム

私の戦争体験「非国民から優等生へ」

 

皆さん、こんにちは。たいへんご無沙汰しました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか? 花粉症でお悩みの方もいらっしゃるのではないでしょうか。3月弥生になりました。月日がたつのは早いものですね。
前回、一日一信の会の会員の戦争体験を掲載しました。今日はその続きを読んでいただきたいと思います。

 

相変わらず敵機来襲で、205月には母たちのいる蒲田方面は、ほぼ全域に近く焼け出されてしまった。幸い、母と姉と妹は、近くに避難して無事だった。川崎の叔父がそのときの様子を大宮まで知らせに来てくれた。当時、父は飛行機の整備で指宿にいて、情報は入らなかった。

 

学校では、朝、登校すると、まず
  勝ち抜く僕ら少国民  天皇陛下の御為に
  死ねと教えた父母の  赤い血潮を受けついで
  心に決死の白襷(たすき)かけて勇んで突撃だ
という歌をクラス全員で、先生のオルガンの伴奏で合唱した。その後に「僕たち私たち少国民は、欲しがりません勝つまでは、で頑張ります」と大声で3回唱えるのである。

 

204月、5年生になったとき、教育大学新卒の男のK先生が担任になった。K先生は私たちに、「どんなに頑張っても今の日本の国は、この戦争で勝ち目はない」と言った。今まで私たちは「日本は神風が吹いてきて勝つ」と教えられていたので、私は「負けるなら早く負けて、何もなくてもいいから空襲のない、そして家族が一緒に生活できるようになりたい」と作文に書いた。その作文が校長先生に知れ、「非国民」ということで両手に水の入ったバケツを持ち、校長室の前に立たされた。担任のK先生は翌日からはいなかった。そういう時代であった。

 

当時、大宮でも、東京大急襲の余波を受けて、毎日のように空襲警報のサイレンが鳴っていた。氷川神社裏山への非難も日課のようになり、夜は敵機の焼夷弾がパラパラと落ちてくる様子が花火のように美しくさえ見えたりした。

 

8月15日、大事な放送があるということで、ラジオの前に座った。天皇陛下の玉音放送だった。雑音が入り、聞き取り難かったが、「戦争は終わった、日本は負けた」ということであった。私は「もう、戦争はないのねえ、夜はお布団で寝られるのねえ」と、何回も何回も伯母に聞いたのを覚えている。

 

蒲田で焼け出された母たちは、私がいる大宮に身を寄せるようになり、狭い部屋で雑魚寝の状態だったが私は嬉しかった。母の手を握りながら寝た。食べ物はなくて、養分の抜けたガリガリのサツマイモをサイコロ状に刻んで、ご飯粒が少々入った雑炊に入れて食べたり、そのサツマイモのつるを粉にして、ふくらまないパンを焼いて食べたりした。今、振り返ると、よく風邪もひかず、生きていたなあと思う。

 

終戦翌年、6年生になったばかりの4月、学校では「私たちのこれからの希望」と題して作文を書かせた。大宮市の作文コンクールだった。私は「人と人とが仲良くすることが一番だと思う。家族も、友達も、日本人も、世界の人たちとも。そして戦争のない世の中になりたい。私がおばあさんになっても戦争のない時代になりたい」などと書いたように記憶している。この私の作文が学校代表2名に選ばれて、市長賞になり、優等賞状と桐の硯箱を頂いた。

 

教科書の文章は1頁のうち半分ぐらいは黒く塗られ、言葉もずいぶん制限された。時代は1年足らずでがらりと変わっていった。これから戦後の生活が始まる。待ちに待っていた父の消息を知ったのは、終戦から1か月ぐらい経ったときだった。父の字で手紙が来たとき、私たち家族は「ウワーッ」と言って大喜びした。うれしかった。

 

*こういう時代だったのですね。K先生には早く走る方法を教えていただいたと彼女は言っていました。バケツが重かったでしょう? と聞くと、先生が通らないときは床に置いたの、と。

 

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